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夕暮れ

〈疼く(自)〉ずきずきいたむ。

やまいだれに冬、と書いて疼くと読む。私の場合、小学生の頃から疼くのはどういう訳か秋だ。ここのところずっとメランコリーな気分でいたのだ。夏の日差しも別れを告げ気持ちが毛羽立っているところにひんやりと乾いた空気が入り込んできて、無性に空を仰ぎ見たくなる。季節性の鬱ですよ、疲れているんですよ、と知人は物知り顔で一笑に付したが果たしてそうなんだろうか。とにかく今日は雲の観察でもしているのかと思う程、仕事の合間にぼぉっと空を眺める事が多かった。刷毛ですっと書いた水彩画の様な秋の雲が魅力的、と言うよりも気持ちに親和していたのだ。

17:00を過ぎて海岸沿いの幹線道路を車で走っていた。トラックよりも一般車輌の多い時間帯、道は混み合っている。信号待ちの車内からフロントガラス越しに海の方に目をやると、仄かにピンク色に染まった空が見える。普段ならばそのまま帰宅するはずであったが、今日のフィナーレとばかり、海浜幕張近く花見川に掛かる橋まで思わず足を伸ばした。

流れる秋の雲に意思は無い。天候や風向きなど重なった諸条件によって、たまたまそういう姿を現しているだけでただ美しい。意思もないから欲も無い。欲も無い故に無駄な自尊心も持たないのである。流れる風に身を任せて空をたゆたうだけなのだ。空の上から、地上で足掻く人間の苦悩を笑いながら見ている様だ。
雲の様に生きてみたい…卑小な自分の我欲にふと気付かされる秋の夕暮れだった。

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by kenya-guitar | 2011-09-28 15:03 | 雑記 | Comments(0)

久々のデイサービス

〈矍鑠(形動)〉年をとっても元気がいいようす。

「健ちゃん、秋がどっかに行きよったで…ほんまに」
エアコンの効いた車内、七十歳になる尺八の男性は私に呟いた。外は九月中旬とは思えない照り返しの強さだ。我々の住む埋立の街を離れて、車は千葉市内陸部の古い住宅街に向かう。今日は稲毛にあるデイサービスから依頼を受けて、KENYA MUSICウクレレチームを中心としたメンバーで敬老の日のボランティア演奏に行くのだ。

近所にあるショッピングセンター稲浜ショップで開いている高齢者中心のウクレレ、ギター教室KENYA MUSIC。私の゛可愛い教え子達゛は平均年齢75歳くらい。楽器をより身近に感じて奏でられる様になったため、年に数回、老人ホームやデイサービス、グループホームにボランティア演奏に行っている。聴いてくださっている方も、演奏する側も同年代(私を除いて)なため和気藹々と演奏出来る上、双方に喜んで頂ける。高齢になっても日頃慣れ親しんだ道具(楽器)を使ったちょっとした社会貢献が出来るのが嬉しいのだそうだ。

「手帳を見たら前回そこに行ったのが三月八日…大震災の三日前だよ」
尺八の男性の言葉に、そうですか、私は頷いた。今日は半年ぶりの演奏。震災後の慌ただしさ、輪番停電などもあり、ボランティア演奏よりもむしろKENYA MUSIC参加者へのケアに追われていた。ご夫婦でならまだしも、独り暮らしの方もいる。
途中、八十歳過ぎのウクレレ男性と女性をピックアップ。現地に直行する七十歳ウクレレ男性と合わせるとウクレレ三名、尺八とギター一名ずつの五人での演奏会だ。

到着すると女性職員の方が丁寧に出迎えてくれた。恐らく昔は農道だったのだろう、車一台が通れる道を入って行った場所にある古い民家。それを改造したそのデイサービスは正直言って狭い。挨拶もそこそこに中に入ると、十五人くらいのおじいちゃんおばあちゃんが寛いでいる。難しい顔で囲碁に興する方、笑顔の方、何故か怒った表情の方、無表情の方、ぴんと背筋を伸ばし矍鑠とされた方、弛緩しきった方、何度も同じ質問を繰り返している方…日中の決められた時間帯、それぞれが思い思いに過ごす場所だ。
KENYA MUSIC参加者の座る場所の確保、チューニングのチェック、曲順、譜面の確認を済ませてから、私自身も準備を終えた頃、尺八の男性が口火を切っておじいちゃんおばあちゃん達に語り始めた。現役時代はやり手営業マンだった尺八男性の然り気無い司会進行は定評がある。

演奏は『四季の歌』から始めた。尺八の主旋律、ギターとウクレレの伴奏で、おじいちゃんおばあちゃん達は歌声喫茶さながら、手元にある歌集を見ながら唄っている。『砂山』『星影のワルツ』と曲順を追う毎に皆さんの表情が和らいでいた。
四十五分ほどの演奏は好評に終わった。弱々しく、ではあるが拍手が鳴り止まない。アンコール…皆さん、音楽によって共有出来た心地よい感情と別れるのを名残惜しんでいる様子だ。それでは今までやった曲の中で、と尺八男性が言いかけると
「『上を向いて歩こう』をお願いします」
すかさず職員の方から返事が。私はKENYA MUSIC参加者に譜面を確認すると、皆さん黙って頷いた。尺八男性を向くと身体でカウントを取っている。ギターと尺八のイントロ。そして響く歌声。古い木造民家の中で、我々の奏でる楽器の音色とおじいちゃんおばあちゃん達の歌声が溶け合って聴こえた。

「どうぞ…召し上がってください」
職員の方がお盆に冷たい麦茶を人数分載せてきてくれた。演奏が終わった後にKENYA MUSIC参加者は譜面台を折り畳み、楽器をしまい、後片付けに追われていた。おじいちゃんおばあちゃん達には笑顔が溢れている。ふと八十過ぎのウクレレ女性を見ると、大事そうに楽器をケースに入れている。ご主人が車椅子に乗る様になって介護をして…そんな話をしてくれたのを思い出した。ウクレレは今は亡きそのご主人の形見だと言う。
「ウクレレが喜んでくれましたか?」
私が笑顔で訊ねると、ウクレレ女性は静かに頷き微笑んだ。

昨日は我々の演奏を聴いて頂いた方々、どうもありがとうございました。
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by kenya-guitar | 2011-09-19 15:40 | 演奏日記 | Comments(2)

小岩の金曜日

〈呆気(名)〉おどろきあきれること。

金曜日の夕方、国道14号線は上りも下りも車で混み合っていた。千葉県と東京都の境、江戸川に架かった橋の真ん中辺りにきた時、夕焼けが見える。都心の上空に水彩で滲んだ様にピンク色が広がっていた。カーラジオから聴こえてくるのは『九月の雨』というジャズスタンダード、ピアノの演奏。火照った身体が軽く湿り気を帯びたひんやりした空気に触れる様な感覚、少し切ない気持ちにさせられた。
到着した小岩の町中には、これから休日を迎える何となく忙しない空気が漂っていた。子供を連れてスーパーのビニル袋を提げて家路に急ぐ主婦。これから行きつけの赤提灯にでも行くのだろうか、ネクタイを弛めてリラックスした表情で闊歩する男性。学校から解放されて嬉しくて堪らないといった表情の子供達。そんな人々を捌く商店の店員達。これから何かが始まる気がする、と言った雰囲気のダウンタウンの金曜日だ。

昨夜は小岩にあるライブカフェ Back in Timeで演奏した。加藤晃司さんベース、鈴木雄二さんドラムス、そして私がギターのギタートリオ。リハーサル当初から自作曲をやりたい私に付き合ってもらっている。前半はジャズスタンダードとミュージシャンズチューン、後半は私の自作曲を中心に演奏した。特に最後はアンコール頂き『risperidone 1mg』を再度演奏した。二回目、始める前から鈴木さんが悪戯っぽい笑みを浮かべながらハイハットをシンバルにぶつけてガチャガチャとリズムを作っている。一瞬呆気に取られたが音楽は既に始まっているのだ。ノイズに魂を吹き込んだような、そんな錯覚を覚えた。以前にも話したが、五感がバラバラに切り離されて辛うじて理性の欠片が残っている感覚を表現したい曲。聴いて頂いている方々にそれを感じてもらえたら嬉しい。

昨夜は我々の演奏を聴きに足を運んで頂きまして、どうもありがとうございました。ご興味のある方、再来月の11/26(土)に市原市潤井戸にある古民家レストランcanonにて、このメンバーでまた演奏しますので、是非起こしください。
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by kenya-guitar | 2011-09-17 11:25 | 演奏日記 | Comments(0)

暴走した妄想

〈妄想(名・他)〉まったくの想像をかたく信じてしまう・こと(症状)。また、そのような状態での想像。もうぞう。ぼうそう。

最近、私を尾行している人間が多くいるが、そいつらを電波少年と呼ぶ事にした。私の過去にあった或る過ちを断罪するために、と或る団体がテレビとインターネットを通じて私の人格矯正を試みているのだ。もしそれに私が気付き、人格矯正が失敗に終わったとするならば家族もろともこの世から抹殺される。私の一挙手一投足はセーラー服通り(我が家の近所にある通り)に張り巡らされたアンテナと諜報員(電波少年達)によって都内にある団体本部に逐一報告されている。もちろん、我が家の中には盗聴器とカメラがくまなく取り付けられている。その報告は、全国にいる他の被人格矯正者達の行動と比較検討されて、行いの善い者から順序付けられる。各都道府県毎に一人づついる被人格矯正者達の成績は午後九時五十五分頃に流れる天気予報の形で発表される。特に成績の悪い者は更に警告の意味で十時から始まるニュース、全国各地の情報の中で取り上げられる。「今夜、千葉県市原市で交通事故があり一人死亡しました…」と流れると、明日は市原の方へは出掛けてはならない…と言った具合に。この世の中はともだちランドなのだ。

三年少し前、精神病院に入院する前から退院してしばらく経つまでの間、私はこんな事を考えていた。友人から、にちゃんねる「心と身体」の掲示板、「メンタルヘルス」を観る様に勧められて気付いたが、典型的な妄想型の統合失調症である。妄想が肥大化していた。
「健也さんは深読みせず、ただ在るが侭に感じて生活した方が良い」
知人からの善意に満ちた助言を素直に受け入れて日々暮らす様にした結果、陰性症状(鬱)も段々と和らいでいった。この手の病は完治とは言わずに寛解と言うらしい。ただ、そういう病の気があるという性分は変わらずに一生過ごさねばならない様で、今でも処方された薬は服用している。
という訳で、恐怖感があったためテレビとインターネットを全く観なくなった。それがただのパラノイアだったと理解しているため今は恐怖感はないのだが、現実の方が面白いので興味が失せて観る習慣を失した。

酒を諦めても酒場の雰囲気は好きで、よく近所のBARなどに出没する。泥酔して他の客に怒声を浴びせ掛ける富士見町のシャンソン歌手。生ビールを片手に前田日明について熱っぽく語りながら浮世の世知辛さを忘れようとする会社員。国際結婚の楽しさ、難しさを楽しそうに語るご夫妻。博打に明け暮れる男達。私にとってはただでテレビを観て仮想現実に浸るよりも、店に金を払ってこういった夜の登場人物(お客さん)とただ在るが侭に接していた方が余程刺激的に思えるのである。
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by kenya-guitar | 2011-09-14 15:55 | 雑記 | Comments(0)

愛器リターン

〈悲観(名・自他)〉①かなしんで失望すること。力をおとすこと。②人生や世界を苦痛(悪)と考えること。

天気の良い夕方、車で茂原街道を抜ける。私がギター講師を務めている市原のショッピングモールへと向かうのだ。FMラジオからかぐや姫の゛神田川゛が流れてきた。十年前、風呂無しの四畳半アパートに住んでいた頃の事を思い出していた。隣に住んでいたのは家賃を滞納していた酔っ払い、いつも人生を悲観して拗ねた態度で時折私に絡んできた。あの人は今はどうしているのだろうか、知る由もない。時代は違えども、歌の中での情景、「ただあなたの優しさが恐かった」という歌詞、じんわりと気持ちに滲みる。街道沿いに広がっている田んぼが陽に照らされて一瞬、黄金色に。クリーム色とオレンジの横縞とオリーブ色の車体、天津小湊バスが対向車線を過ぎていく。信号待ちの車内からの風景だ。

一昨日の夜、千葉の富士見町にあるBARでロックのジャムセッションだった。ブルースもよく演奏されていて、音楽表現の中での暴力衝動の発露など観ていると何かと興味深い事が多いので、友人に誘われてはたまに行く。そこでよく会うギタリスト、彼の持って来たギターを弾かさせてもらった。テレキャスター型のthinline、fender Japanのものを改造したらしい。彼はいつもそれで格好良いロックを弾いているが、実はジャズやブルースにも使える楽器でコードを弾くとハーモニーが溶け合う感じがした。通常メイプル指板のものをローズに変えたそうだ。ライブにはもちろん、ジャムセッションにも気軽に持ち運べる。私は自分のギター一辺倒で他のギターに目移りする事は無いのだが、一目で気に入ってしまった。素晴らしい音だった。いつも使っているgibsonのES-175(エレクトリックギター)が不調な時がたまにあって、新しいギターを買うべきか迷っているが…。

そう言えば昨夜は中秋の名月、花屋で買ってきたのだろう、ススキを手にしている人を見掛けた。帰りの道すがら夜空を見上げたのだが、空の高いところに月があって少々期待外れだった。沖田ギター工房から修理を終えてようやく我が家に帰ってきた愛器(クラシックギター)でも弾きながら、新しいギター購入がままならないこの火照った気持ちを冷ましたい。
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by kenya-guitar | 2011-09-13 15:10 | 雑記 | Comments(0)

月を眺めながら

〈どんちゃん騒ぎ(名・自)〉(料理屋などで)酒を飲み歌をうたっておおいにさわぐこと。また、そのようなさわぎ。どんちゃかさわぎ。

暑くもなく、かと言って肌寒くもない、風の穏やかな秋の夜。月曜日の十五夜を前に、友人と二人で近所の浜辺に繰り出した。
自転車に乗って海に到着すると、夜遅くなのに高校生がやけに多くたむろしている。後から聞いた話、今日は近所にある県立高校の文化祭、その流れで帰らずにうろうろしている様だ。そんな彼らをよそに我々二人はそそくさと東屋のベンチに陣取った。座るなり缶ビールのプルタブを開ける音が軽やかに響く。私はノンアルコールビール。浜辺に沿って立つ隣の東屋では別の若者達が酒を飲んでどんちゃん騒ぎしている。発電機を持ち込んでいるのだろうか、煌々と灯りをともして重低音の響くスピーカーでテクノを大音量で鳴らしていた。

三年くらいだろうか…一緒に浜辺に来たその友人との親密な付き合いは、私が精神病院退院後だというのは憶えている。私の一つ年上、自分達を取り巻く環境に対する考え方に共感するものがある。仕事の事、家庭の事、人生そのものの事。三十代も後半に差し掛かり、人生観と言うより勘が出来上がりつつあるのだろう。肩の力が抜けた状態で色々な事に取り組める。私もそうだが、彼は静かに自然体で話が出来るこの場所が好きなのだそうだ。

東京湾の景色が一望出来るその場所、お台場の方にはビル群の灯り。溶鉱炉であろうか、市原の方角には高い煙突から時折、勢いよく火柱が噴き上がる。にび色の海面を月が照らし出し、波に揺れてぎらぎら輝いている。
「影があるから光が輝いて見えるのよ」
人生、影ばかりではない。先日、ある女性が私に話してくれた一言を噛み締めながら、二人でその風景を眺めていた。
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by kenya-guitar | 2011-09-11 13:14 | 雑記 | Comments(0)

喧騒から離れて

〈せせら笑う(他動)〉あざわらう。

入浴後にベランダに出て煙草を一本燻らすと、夜風に煙が流された。今夜は海から心地よい風が吹いている上、星も綺麗だ。蟋蟀の鳴く音も聞こえてくる。完全に夏は過ぎ去った感がある。六月に仕込んでおいた赤梅漬け、とうとう土用干しの機会を逃してしまったが、塩蔵したままにして来年の夏を待ちたいと思う。蟋蟀達が私のぐうたらをせせら笑っている様に聞こえる。

今夜は新千葉にあるレストラン&バー moon blossomでベースの加藤晃司さんと二人で演奏した。千葉駅の繁華街に比べてやや離れた立地にある落ち着いた雰囲気のするバー。お客さんもそういった感じで、私はすごくやりやすかった。加藤さんとのデュオは二回目であったが、一回目の時とは全く違ったテイストであった。私の自作曲はやらず、リラックスした雰囲気のスタンダードが多い選曲だったのだ。それでもJohn Coltraneの曲も演奏したが、加藤さんのベースが光っていた。『ballads』の一番最後に入っているブルースで"up against the wall"という曲なのだが、ジャズのギグが終盤に近付いてきたすかすかな感じが出ていてすごく好きなのだ。
「仔牛のカツレツ、デミグラスソース」…とでも言うのだろうか。終わった後にいただいた食事が美味しかった。温野菜もほどよく添えてあるので、栄養バランスにも優れていると印象深い。

今夜は私達の音楽を聴きにお越しくださいましてどうもありがとうございました。また演奏させて頂きますので、是非お越しください。
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by kenya-guitar | 2011-09-10 12:58 | 演奏日記 | Comments(0)

ピアノとギター

〈静謐(形動)〉①事件がなくて、おだやかにおさまっているようす。②おだやかで(静かで)物音がしないようす

千葉市内の海岸部にある工場地帯を抜ける道は平日の夕方になると混み合う。工場に車で通勤する人達、帰宅を急ぐ車であろう。昨日は雨上がりのじめじめした湿気もあって、混雑の苛立たしさをやや感じた。千葉みなとのジャズBAR clipperへ行くにはその道を通って行くのが手っ取り早いのだ。またいつ降り出すか分からないこの天候、自転車でも行ける距離なのだが車を使った。

昨夜は佐藤ヒロコさんと二人で演奏した。実はピアノとギターのデュオでライブをやるのは初めてなのだ。Bill Evans & Jim Hall 『undercurrent』の静謐さ、じんわりとこみあげる様なパッションが好きで、実際演奏するにあたって何かの音楽を手本にしてやるのは好きではないのだが、必然的にそうなってしまった。スタンダードとミュージシャンズチューンをミックスさせた程好い選曲だったと思う。特に、皆さんからアンコールを頂き『risperidone 1mg』を再度聴いて頂いた。この曲は私の考えた「曲と言うよりは枠組み」であるが、自由即興でその時々の感情を移入出来て面白いと思う。もちろん、一回目の演奏と二回目の演奏は全く違う。この曲で「五感がバラバラに切り離されて理性が辛うじて残っている」雰囲気を醸し出したい。録音した音源を聴き返すのが楽しみである。
私自身の反省点は多々あるが、まだまだ良い音楽を削り出す事が出来るだろう。

このデュオは次回、千葉みなとclipperで10/6(木)に演奏します。興味をお持ちの方は是非お越しください。
昨夜はお越し頂き、我々の音楽を聴いてくださいましてありがとうございました。
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by kenya-guitar | 2011-09-06 12:55 | 演奏日記 | Comments(0)

虹を見て

〈浮世(名)〉生きていく事のつらい世の中。

台風が日本列島を直撃している土曜日の午後、私は友人と二人で近所にある公園のベンチに座っていた。降るのか降らないのか、この天気を敬遠してだろう、人気はない。缶コーヒーを買って煙草を吸いながら談笑していると、公園の木立からざわざわという音が。しかも、だんだん大きい音になる。一瞬強風が吹いているのかと思ったが、腕やベンチに雨が落ちるのを見て木の下に緊急避難する。広い芝生の方を眺めると、雨粒がシャワーの様に緑の芝の上に降り注いでいるのを雲の間から覗く晴れ間が照らし出している。狐の嫁入り、すごく幻想的な光景だ。強く降ったり止んだり、断続的に訪れる降雨に我々は木の下とベンチの間を行ったり来たりだ。
「虹だ…」
雨が通り過ぎると、東の方角、雲の間から青い空が見える。友人が呟くと、しばし沈黙が続いた。何年振りだろうか、久々にお目にかかった虹。赤の次に青で、と配色も気にならないくらいただただ見とれる。一分と経たない内に消えて無くなってしまった。


「ジャズミュージシャンが社会的にどう見られて、自分自身がどうしたいのか…それをよく考えた方が良い」
私が音楽人としてプロフェッショナルの高みを目指したい旨、話した時の先生の言葉だ。今から十五年くらい前の話だが今でもよく覚えている。恐らく至上命題として死ぬまで考え続けなければならないだろうと思う。

何かしら「やった事の代価」を支払う事でこの世の中は成り立っていて、その現実に生きる人達の価値観としては『効率と生産性の優先』が重んじられ、社会の歯車と化した自己を眺めるにつれ「やりたくないけど働かざるを得ない」という虚無主義にも似たネガティブな感情の中で生きる人達が多数だ。「こんなに働いているけれどちっとも報われない」…街には満たされない人達の欲求不満で満ち溢れている。電車に乗っているとよくある光景だが、何故か怒った顔をした人が多い。喧嘩にでもなれば「お前が先に肩に触れた」とか怒鳴り散らしている。近所に住む或る人は私が挨拶をしても絶対に応えない…それは近所付き合いが無駄なもの(何ら生産性を持たない)としてしか映らないからであろう事は容易に想像がつく。
人間関係は針で突こうものなら勢いよく割れてしまいそうな空気いっぱいに膨らんだ風船の様なものだ…そう感じる人は多いと思う。
そういう風に欲求不満を抱えた人達が私の様な自由気儘な一音楽人を見た場合どう言うであろうか?簡単である。
「好きな事をやって生きてられて良いですね」
時に好意的に、時に皮肉たっぷりにこの言葉は使われる。ここに現実社会と自由創作活動との大きな断絶、亀裂が存在するようだ。

しかし、そういう世の中に対する閉塞感・限界を抱いている人達もこの世の中にはたくさんいる。「効率と生産性を最優先させるだけで本当に良いのか?」とか「何となく生き辛い」とか。はっきり言って、私がたまに行って演奏する痴呆老人の集まりや、障害者施設などは効率と生産性を優先させる世の中から取り残された様な存在だ。だからこそ、その価値観とは全く反対の論理を持つ人々(ボランティア)の善意が介在して成り立っている。現実に我々は痴呆老人や障害者になり得る可能性は充分にある。


そんな世の中でギターを弾いて他人に何かを伝えられる、としたら一体何があるのだろう。要するに、何を以って音楽人としての自分が社会に貢献出来得るか、という事だ。残念ながら、私は低所得者である。所得税はおろか市民税・県民税も払う資格を有していないのが実情である。なので経済的な貢献、例えば納税をはじめ寄付など金銭面で社会に参画するのは今のところ不可能だ。では他には何があるか?
二十年近くもギターを弾いているので当然かもしれないが、幸いにして私は音楽で自由を体現出来ていると思う。つまり、私の音楽を聴いてもらってその音楽イメージの中で自由の素晴らしさを聴いているお客さん達と共有し、浮世のしがらみから解放する事が出来る、と思う。

もしその自由を感じられたのならば、おいくらでも構いません。箱の中にお金をください。
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by kenya-guitar | 2011-09-03 18:03 | ギター | Comments(2)

八月の終わりに

パントマイム(名)〉言葉を使わず、身振りや表情だけで表現する演劇。また、その演技。無言劇。黙劇。マイム。

七時を過ぎた頃、新鮮な外気を浴びにBARのドアを開き外に出る。雨に濡れたアスファルトは街灯に照らされて光って見えた。止んだかに見えたがやはり、陽も落ちた途端に降り出した。八月の最終日は一日中ぐずついた天気だった。しとしと降る雨を眺めながら軒下で煙草を一本燻らし店に戻ると、BGMが変わっているのに気付く。
「John Scofieldの音って…すぐ分かりますよね」
腰掛けたカウンター越しに店の男の子が呟く。彼が持って来た音楽だそうだ。女のヴォーカルがR&Bの乗りで声を張り上げ唄う後ろでJohn Scofieldがうねった旋律を奏でる。最近の演奏の様だ。私は自分自身の演奏前、適度な緊張感を保ちながらその音楽にじっと耳を傾けていた。

昨夜は京成谷津駅前のBAR、A-tan segundaでソロギターで演奏をした。いつも思うが、ソロギターは他のメンバーがいないために自分の事だけを考えていれば良い点で楽である。が、しかし、調子の悪い時などは全てが自分に跳ね返ってくるので辛い。海を泳いでいて岸に辿り着けないくらいまで沖に流されてしまった時、ハッとする恐怖感、それに似たようなものを味合わなければならない。もちろん、集中力の持続性も問われる。全ての時間をギター一本で語らなければならない。そういう意味で一人芝居をするパントマイマーにシンパシーを感じてしまうのである。
昨夜は、と言うと、自分の内面にあるものを殆ど吐き出した、と言った感じ。自分では良い演奏だったと思う。

演奏が終わった後に自作曲の感想等、音楽に接する喜びについて色々な話をお客さん達から伺う事が出来た。私自身が到底気付かない様な話も聞ける。有り難い事である。

昨夜は、雨が降る中お越しになって、私の演奏を聴いて頂きましてありがとうございました。
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by kenya-guitar | 2011-09-01 16:25 | 演奏日記 | Comments(0)


ギタリスト鈴木健也の雑記帳


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